利根川流域の山 プロローグ  

 利根川流域の山は、私が所属している我孫子登山倶楽部のホームグランドとして長年取り組んでいる山域です。
 

T)はじめに

「いっそのこと利根川流域の山を、片っ端から登ってみないか」、この一言から我孫子登山倶楽部の利根川流域への取り組みはスタートした。会創立10周年事業で取組んだ1978年以来であり、早いもので24年が経過したことになる。
そもそも何故利根川流域を選んだのか。最大の理由は、我孫子市の北側を悠々と東流して太平洋に注ぐ大河利根川の存在である。利根川は古より坂東の歴史を育み、幾度かの大水害という試練を与えながらも、古利根や手賀沼などの貴重な自然を残してしてくれた。今尚私たちの生活に深く密着しているのである。市内より見える山といえば筑波山くらいで、山とは程遠い我孫子市であるが遡れば自然の山域が豊富に拡がっている。そんなわけで、私たちが利根川流域の山に注目したのは、ごく自然のなりゆきであった。
 選定作業の第一歩は利根川流域を末端から各支流の源流までそれぞれ一覧する「河川コード」を旧建設省から、また克明な利根川流域の水資源開発図などを入手することから始まった。次に国土地理院の2万5千図から126山をリストアップ、それから山容や歴史的背景・山行難易度などを考慮して、最終的に50山に絞り込んだのである。
創立10周年事業としての前期50山への取り組みは、3年後の赤城黒檜山で打ち上げとなったが、計画スタートから記録文集の完成まで4年を要する大事業であった。

U)続50山(後期50山)への取組み

 創立10周年事業として取り組んだ利根川流域50山も、記録文集の出版まで総員の熱意でやりとげたものの、その後は急速に沈静化していった。その後はブランドものの山に捕われ、誰も残された利根川流域の山をやりとげようなどとは言いださなくなってしまったのである。現在と違って当時の会員は50名程度で、リーダーの数にも限界があり、年間の例会山行も14山程度を行うのが精一杯であった。そんな中で地味な利根川流域の山などに、積極的に取組むゆとりはなかったのである。
それでも当会が利根川流域と縁が切れずに繋がったのは、1991年に崙書房出版株式会社より、利根川流域の紀行文を一般書店で発売する出版の話が持ち上がったことによる。書店で売るとなると今までの記録文集のように、会員の自己満足のみでは完成しない。資料に再調査や編集など、煩わしい作業に追われながらも1991年10月になんとか出版にこぎつけることが出来た。その年の11月9日には読売新聞全国版にて「我孫子の実年登山倶楽部が異色の山行集を出版」との記事が掲載され、それを契機に山の専門誌やプレジデントなどの雑誌にも次々と紹介されていった。停滞気味であった会員数も急増して、利根川流域の山への関心も徐々に高まっていった。
その頃になるとリーダー会員も充実してきて、残された利根川流域の山へ取組む足固めも出来てきた。同年11月には会創立20周年事業として、残された利根川流域の山に取り組むために、「続利根川流域の山選定委員会」が発足した。翌年3月の総会に於いて、会目標として取組むことが決定したのである。選定委員には前期からの継続委員もいたが、積極的に活躍したのは前期50山の終了後に入会した新しい会員であった。選定作業に際して彼らは前期でリストアップされた126山のみに満足せず、再び膨大な資料と格闘して、新しい目で後期50山を選定し直したのである。最も苦労したのは、ガイドブックにあるような登山道の有る山は既に前期で登られてしまい、残りは情報が極端に少なかったことである。決して山そのものに魅力が無いわけではないが、どうしても前期50山に比べると見劣りしてしまうのである。一部の会員のみが対象であれば問題ないが、多くの会員に注目されるにはどうすべきか。そのために、計画段階から月一回以上をバランスよく例会山行に組み込んでいったのである。更に徹底していたのは、月例会や文化祭などを活用して、進度管理や山行報告を細かく行ったことである。その結果、地味な山が多かったのに関わらず、延べ参加者数は前期50山の7倍で600名以上という大成果を挙げることができた。

V)その後の取り組み

前期と後期で利根川流域100山を終了した後、その成果は雑誌「岳人」や「山と渓谷」に発表された。創立20周年事業として続利根川流域の50山は、1996年に記録文集を発行したことで終結した。
その後は、同山域を我孫子登山倶楽部のホームグランドとして春夏秋冬に例会山行で取り上げられている。
1996年からは利根川の各支流域を精踏するために、第一回は「鬼怒川流域」第二回は「片品川流域」の山へ、夫々2年間をかけて取組んできた。その成果は、雑誌「山と渓谷」の1997年11月号と2001年1月号に、地域踏査として6ページ程度掲載されている。また山頂そのものは利根川流域ではないが、利根川流域・男鹿山塊の最高峰である大佐飛山への登頂記録が、1999年3月号の岳人に掲載された。
会目標としての取り組みは無いが、現在ではホームグランドとしてごく自然に例会山行にも取り入れられている。会員の中には自分のライフワークとして積極的に取組んでいる人もいる。例えば西上州・神流川流域を登っているO氏、栃木足利などの低山を精力的に訪れているTさんがいる。2002年12月には、1995年以降に例会や準例会で計画された39山の記録文集を、会創立25周年記念「続々利根川流域の山」として出版した。



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